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第8話 失った未来

作者: けもこ
last update publish date: 2026-08-17 02:03:36

紗英は、ダイニングテーブルに置いたノートパソコンの画面を、じっと見つめていた。

表示されているのは、自分の仕事名義で使っている口座の入出金履歴。

スクロールするたび、見覚えのない数字が並ぶ。

一千万円。

二千万円。

それより少ない金額も含めれば、直近だけで何度も大きな入金と出金が繰り返されている。

入金元には、ヴァレストラ・ホスピタリティ・グループの関連会社名。

その数日後には、別の法人へほぼ同額が送金されていた。

紗英は、画面の数字を何度見直しても意味を理解できなかった。

「なんなのよ、これ……」

呟いた声は、自分のものではないように聞こえた。

この口座を作ったのは、雅人と結婚する少し前だった。

それまでもフリーランスとして仕事はしていたが、本格的に事業として活動していくなら、仕事専用の口座を持った方がいいと勧めたのは雅人だった。

会計処理も、税務も、専門家に任せた方が安心だから。

そう言って、自分の知り合いだという会計事務所まで紹介してくれた。

当時の紗英には、それがありがたかった。

仕事が増え始め、請求書や経費の管理だけでも手いっぱいだったからだ。

「数字は専門家に任せて、自分は花の仕事に集中すればいい」雅人は、そう言ってくれた。

そして紗英も、それを信じた。

パソコンの画面を見つめていると、二年前のことが蘇ってきた。

結婚をする少し前。

紗英は、フラワーデザインの国際コンペティションで賞を取った。

学生時代から何度も写真集を眺めていた、フランスの老舗デザイン会社。

そして、その会社から、二年間の契約を結ばないかという打診が届いた。

最初にメールを見たとき、歓喜の叫びをあげて何度も読み返した。

自分の名前が、本当にそこに書かれているのか信じられなかった。

フリーランスのデザイナーとして生きていくなら、これ以上ないほど大きな機会だった。

海外で経験を積める。

著名なホテルやブランドの装花に携われる。

二年後に日本へ戻ったとしても、その実績は大きな看板になるに違いない。

行きたかった。

当然だった。

そして、自分を応援してくれる雅人も同じだけ喜んでくれる、と思っていた。

しかし、その話をしたとき、雅人は長い間黙っていた。

そして、困ったように笑った。

『二年も離れるのか』

『ずっと向こうにいるわけじゃないわよ。休みが取れれば帰ってくるし、雅人さんだってフランスに来られるでしょ?』

『そういう問題じゃない』

珍しく、雅人ははっきりと嫌そうな顔をした。

『俺は、紗英と離れたくない』

その言葉が、当時の紗英には嬉しかった。

必要とされていると思ったから。

『わざわざフランスで修行まがいのことをしなくても、紗英なら、日本にいても絶対に成功できる』

雅人はそう言った。

『俺が後押しするよ。絶対に、この契約を断ったことを後悔させない』

「後悔させない……か」

紗英は、画面を見つめたまま、小さく呟いた。

その数か月後。

雅人が紹介してくれたフラワーデザイン会社と業務委託契約を結んだ。

ヴァレストラ系列ホテルの装花案件が増え、仕事は安定した。

紗英は、雅人の言葉どおりだったと思った。

フランスへ行かなくても、自分はきちんと前へ進んでいる。

結婚もした。

仕事も続けられている。

自分は、何も失っていない。

そう信じていた。

今になって考えれば。

仕事先も。

会計事務所も。

口座の管理も。

生活費も。

住んでいた部屋も。

すべて、どこかで雅人につながっていた。

紗英は椅子の背にもたれた。

「私……何してたんだろう」

自分の人生だったはずなのに。

いつの間にか、重要な部分を少しずつ雅人へ預けていた。

そして、それを愛されている証拠だと思っていた。

いつから、こんなに馬鹿な女になっていたのだろう。

その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が痛んだ。

紗英は昔から、誰かに頼って生きてきたわけではない。

むしろ逆だった。

両親を早くに亡くしてから、ずっと一人で生きてきた。

親戚はいるが、両親の葬儀に会ったのが最後という程度。

親代わりに育ててくれた祖母は、高校2年の時に亡くなった。

困ったときに帰る実家もなければ、何も聞かずに泊めてくれるような兄弟姉妹もいない。

高校時代から、生活費の一部を自分で稼いだ。

雅人はそんな自分を知っていてくれたはずなのに。

そう思い出すと、胸が苦しいほどに痛んだ。

初めて雅人と出会ったのは、母が入院していた病院だった。

同じ病室の母親を見舞いに来る彼と、何度か顔を合わせるようになって、仲良くなった。

学校帰りに制服で現れる雅人と、待合室でお菓子を食べたり、勉強を教えてもらったりした。

小学生だった自分と、中学生の彼。

その後すぐに母が亡くなり、それから長い間、会うことはなかった。

再会したのは、紗英がフラワーデザイナーとして仕事を始めてからだ。

ホテルの装花現場で、偶然声をかけられ、話をしているうちに昔出会った男の子だとわかった。

『あの時の!久しぶりだね』

覚えていてくれたことが嬉しかった。

紗英の両親がいないことも、一人で生活を支えていたことも、彼は知ってくれている。

だから。

彼になら、寂しさを説明しなくても分かってもらえると思った。

帰る家がないこと。

誰かから「おかえり」と言われる生活に、ずっと憧れていたこと。

自分の家族を持つことが、少し怖くて、それ以上に欲しかったこと。

雅人は、その全部を受け入れてくれたように見えた。

『もう、一人で頑張らなくていい』

そう言われたとき。

紗英は、初めて誰かに頼ってもいいのだと思った。

それが間違いだったのだろうか。

パソコンの画面には、見覚えのない送金記録が残っている。

テーブルの横には、マンションからの退去を求める書面。

その隣には、高槻家の法律事務所から届いた分厚い封筒。

自分の周囲にあるものすべてが、昨日までとは違う意味を持ち始めていた。

雅人は死んだ。

死んだ夫には、本当の妻と息子がいた。

自分との婚姻届は出されていなかった。

受理証明書も偽物だった。

仕事を失った。

家も失おうとしている。

さらに、自分の名前で多額の金が動いていた。

一つ一つなら、泣いたかもしれない。

怒りで打ち震えたかもしれない。

けれど、あまりにも多すぎた。

何を悲しめばいいのか。

何に怒ればいいのか。

何から考えればいいのか。

頭が、少しも追いつかなかった。

不思議なほど涙も出ない。

紗英はしばらく画面を見つめたあと、静かにノートパソコンを閉じた。

部屋の中が急に静かになった。

「……無理」

小さく呟く。

今は、これ以上考えられない。

この部屋にいると、雅人の痕跡ばかりが目に入る。

ソファ。

食器。

本。

カーテン。

何を見ても、記憶がついてくる。

そして、もうすぐここから出なければならない。

だったら。

次に住む場所だけでも探し始めよう。

それくらいなら、頭の働かない今の自分にもできる。

紗英は立ち上がり、バッグを手に取った。

近所に、不動産会社があったはずだ。

収入もどうなるか分からない。

今の貯金で無理なく払える、小さな部屋でいい。

とにかく、住む場所を確保しなければならない。

外の空気を吸えば、少しは頭も冷えるかもしれない。

玄関で靴を履きながら、紗英は一度だけ部屋を振り返った。

二年間。

ここを、自分の家だと思っていた。

けれど、もうそれさえ本当ではなかったのだ。

紗英は静かに扉を閉めた。

そして、近所の不動産会社へ向かって歩き始めた。

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